忠臣蔵と大石神社
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忠臣蔵について
元禄14年 – 第一の事件
元禄14年(1701)春3月、江戸城中松の廊下で、勅使接待役の浅野内匠頭長矩が、指南役の当家筆頭吉良上野介義央に刃傷におよぶという一大事件が起こった。
長矩は将軍綱吉の独裁をもって即日切腹、浅野家は取り潰しとなる。
これが第一の事件である。
元禄15年 – 第二の事件
元禄15年(1702)12月14日の夜、長矩の家臣大石内蔵助良雄ら四十七義士が吉良屋敷に討入り見事主君の怨みを晴らし幕府の失政に一矢を酬いる事件が起こった。
そして2ヶ月後の2月4日、義士達は武士の最高の名誉である切腹という処分を受けることにより劇的な終焉を遂げた。
これが第二の事件で、このふたつの事件を合わせたものが「忠臣蔵」である。
忠臣蔵と大石神社
ご鎮座・ご祭神について
大石神社は明治天皇の宣旨を契機として明治33年神社創立が公許せられ、大正元年11月、四十七義士命を祀る神社としてご鎮座になった。
ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。
境内社合祀殿
境内には浅野家時代より藩民の崇敬をうけた古社が多くあって、赤穂築城の軍師であり義士に兵学を教授した山鹿素行命を祀る山鹿社、学問書道上達の神天満宮、塩田の守護神である八田社、その他恵比寿社、国助稲荷、淡島社、忠魂社の七社が点在していたが平成12年境内社合祀殿として一ヶ所に合祀した。
また大石邸庭園には元禄7年大石内蔵助が主君長矩に従って備中松山城請取りに際し、その大任を祈願するため笠間より勧請した大石稲荷社が鎮座している。